筆保銀香です

三題噺置き場。縦書きの。段落のところの1マス空きが変なのはご容赦ください。

人間椅子の所

人でいたくない。物でもいたくない。どこにもいたくない。そう思いながら今日も誰かに座られる。

二十歳になったときに家の近所の裏道を通ったときに、私は誰かに連れ去られて、いろいろなひどいことをされて、四つん這いで長時間いられるように調整されて、「椅子」として出荷された。
 私を「買った」人物は、どこかの大富豪で、私はそれなりの値段で買われたのだと思う。その男はあまりに太りすぎているため、私に座ることはできないけど、その男の妻や子供、愛人が私に座る。そのうちに、大富豪の男が私のいる所を「あの椅子の所」と言っているのを知った。
 初めて私を見た人は「ひっ」という短い悲鳴をあげた後、大富豪の男にいくらで買ったどういう「もの」であるかを説明され、座るように促されて、私にそっと座り始める。始めは私に気を遣ってゆっくりと下半身に力を込めて座ってくださった方も、しばらく大富豪の男の言葉を聞いていれば「それなら」と私にしっかりと座り始める。その重みが私の関節に響き始めるのを感じながら、私は思う。
 私はもう人ではない。でも、物でもいたくない。私は場所ではない。どこにもいたくない。
 そんな生活を過ごしていても、私の心はなかなか死なず、ささやかな幸せをもつようになった。大富豪の男の子供、次男のお坊ちゃん。彼はまだ小学生くらいの子供で、身体が小さく、私に乗るときもぴよんと飛び上がらなければ座れない。その体重はとても軽く、普段大人の女性を乗せている私からすると、乗ってないようにも思えるほど。だけど、しっかりと服越しに子供の暖かさを感じることができる。その暖かさが、私を次第に癒していった。
「ねえ、椅子さん。僕、ピアノを弾くんだ」
 ある日、お坊ちゃんが声をかけた。私の出荷元で「家具は喋るな!」と調教されているせいで、私は声を発することができない。それでも、彼は話を続ける。
「そのピアノの先生がすごく厳しくて、僕もう嫌なんだ。だけど、椅子さんがいれば安心するから、僕のピアノの所にこない?」
 私はびっくりした。こんな姿になって、私は誰かに必要とされている。選べるならば、彼の傍に行きたい
 でも、私は家具で、彼の言葉に答えることも何もできない。私が黙っていると、彼は私から離れていった。
 この時ほど、私が後悔したことはない。もしも、私が人であれば彼に何かを言ってあげられただろう。もしも、私が物であれば、彼の好きなように連れて行ってもらえただろう。もしも、私が場所であれば、彼もこんなことを言い出さなかったかもしれないだろう。
 こんな中途半端な姿になったことを私は悔やんだ。悔やんで、悔やんで、それでも涙は流すことができなくて、私は四つん這いの椅子の姿で静かに悲しんでいた。

数日後、目が覚めると、私は子供部屋のピアノの傍にいた。
「お父様が勉強をがんばったらあなたをくれるって言うから、がんばったんだよ」
 彼はそう言って、ゆっくりと、つたない指先でピアノを弾く。そのリズムの不器用さに、私はまた次第に癒されていく。

妖怪三題噺「人、物、場所」
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