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筆保銀香です

三題噺置き場。縦書きの。段落のところの1マス空きが変なのはご容赦ください。

ミミズ苦

 森の中を駆ける一人の男。男は必死に息を切らしながら出鱈目に走る。息を吐いて吸っての繰り返しの合間に「くそ! ちくしょう!」と毒づく。男は苦しんでいた。彼の頭の中はわけのわからないものが這いずり回っていた。しかし、それは彼にしかわからない。

「ミミズが! ミミズが!」
 男は足を止めて空を見る。月も見えない闇に向かって男は叫ぶ。
「ミミズが俺の頭の中を這いずり回っている!」
 それは誰へ向けて叫んだのだろうか。男の声は森の中で何度か反響し、鳥たちを驚かせる。しかし、男の頭の中に本当にミミズがいるのか定かではない。
「くそ! くそう!』
 男は森に来る前、料理屋にいた。男は身体に様々な病気が出てきた歳になった。酒をちびちびと呑むが、それも本来は止められているものである。それを止めることの方が男には苦しいことだった。男は酒を呑むことが好きだった。そして、酒を呑むと必ず周りに迷惑をかけた。男の妻は夫の暴力に耐えられずに逃げた。男の仲間たちは暴君の如く暴れる男を集団で袋だたきにして離れて行った。それから男は呑んだ先で次々と問題を起こしていた。
 その料理屋でもそうだ。男は隣にいる男に「おまえの荷物が邪魔なんだよ!」とイチャモンをつけていた。男は自分が怒鳴った相手がどんな姿だったのか分からない。本当に女だったのかどうかも分からない。
 ただ一つ覚えていることがある。
「ミミズに苦しむ。おまえはミミズに苦しむ」
 店を出て行く前に男が言われた言葉だ。それからずっと男は頭の中に「なにか」がいるような感じに苛まれていた。
「ミミズが、俺の中にミミズが!」
 男は頭を何度もかきむしる。元から髪の少ない男の頭に、すぐに爪が刺さり、二、三度ひっかくだけで頭皮がめくれてしまっていた。
「俺の中にミミズがいる! なんで俺なんだ! なんで俺だけなんだ!」
 森の中で叫ぶ。その声を聞くものはもう誰もいなかった。鳥の声すらもしなくなっていた。男は一人だった。大きな森の中。もはやどこから男が来たのか分からない。しかし、男はもう帰ることなど眼中にない。彼の頭の中は、それこそ「ミミズ」に苦しめられていた。
「なぜだ! なんで俺だけが!」
 しだいに男の怒りは、自分だけが苦しんでいるこという事実に向いていった。もしも、あの料理屋にいた全員が、こうして男と一緒に苦しんでいたら、男もここまで苦しまなかっただろう。
 世の中で自分だけが苦しんでいる。
 自分だけが世の中の悪い膿みを背負っている。
 もうどうしようもないくらいに腐ってしまっている。
 男は叫んだ。
 身体の中の酸素を全て吐き出すように。
 喉の奥が詰まって、喉が張り付くような感じが気持ち悪くなって、男は胃の中にあるものを吐き出す。べしゃりと汚い音を立てて、男もその上から覆い被さるように倒れる。
「俺が……俺だけが……。腐っていく……。俺だけじゃなくて、みんなが腐ってしまえばいい……」
 男はポケットから携帯電話を取り出す。
「腐れ……腐れ……。俺は、俺を誰だと思っている……。おまえらも同じだ……。俺と同じにしてやる……」
 息絶え絶えに男は携帯電話を開いてボタンを押す。
「はは、ざまあみろ……。核ミサイルだ。俺は核ミサイルを発射した! さあ、腐れ! みんな腐ってしまえ!」
 男は笑った。しかし、その笑い声はしだいにかすれていき、ついには力なく途絶えてしまった。
 森の中で携帯電話だけが音を発している。
 そのディスプレイには男の元妻の名前が映し出されていた。

妖怪三題噺「ミミズ、ミミズク、ミサイル」
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