筆保銀香です

三題噺置き場。縦書きの。段落のところの1マス空きが変なのはご容赦ください。

アニメチック

嗚呼、ツインテールだ。顔を上げると、目の前にバカバカしいツインテールが存在していた。

 今は数学の時間だが、自分のノートにはまだ何も書かれていない。書く気が起きないのだ。そんなことを考えているのはおそらく自分だけで、周りを見渡せば、みんな先生に敬意を示すみたいに頭を下げて必死に黒板の文字や記号を書き写している。
 そんな中で見つけたツインテールに話を戻す。自分の前に座っている女子(出席番号二十五番の金山というらしい)の頭と黒板に書かれたy=-x^2のグラフが重なっていて、ちょうど耳の上くらいのところから、白いチョークの線がぴよんと生えているように見える。
 ぱっと見たときにそれを「ゴキブリの触覚」ではなくて、「ツインテール」と表現したのはその顔も覚えていない女子のためか。
 否。
 それは二次元への想いと三次元への絶望の入り交じった感情が、僕の意識に昇ってくる前にマイルドにしちゃった、僕から僕への優しさなのだ。アニメでかわいらしく画面に、ひいては僕にウィンクしてくれるアニメ女子みたいな子は、現実でも存在しうるかもしれない。そんな気持ちに少しでも錯覚できるようにしたものだ。
 黒板という二次元で表現されるy=-x^2、僕の目の前に存在する三次元の出席番号に十五番の金山という女子。この間に、いったいいくつの壁を破壊していけば二次元が三次元に、また三次元が二次元に行くだろうか。
「鎌田!」
 鋭い声と、視界の端で次々に動く顔たちが僕の方へ突き刺さる。先生はまっすぐと指で僕のノートを指す。「書け」と指先が言っている。目を通して頭へ映ってきたその映像が、アニメチックになっていく。先生の指先の指と爪の間がぱっくりと割れる。血が流れながら、指先が喋る。
『鎌田、今やっているのは確かに中学生の頃の復習だ。だがな、これを丁寧に振り返ることは大切なことなんだ。分かっているのか?』
 はい、指先生(元は橋本先生の指だったもの)。
『分かっているんです。分かっているんですけど、これって本当に大事なことなんですか。もっとこう、大事なことを教えてください。僕らの世代は先生みたいに気楽じゃないんです。虚像でも空想でも、リアルじゃなくても、そういうものに縋らないと無理なんです』
『何を甘いことを言っている。勉強だ。勉強せよ。君は何だ。あれか、あれ、あれ(指先がくるくる回る)。五月病ってやつか。GWの間に遊び呆けていたのだろう。君らは(ここから、僕でなくて全体への警告となる)! 勉強してここまで来た。高校生になった。そこで燃え尽きはしていないか? 思ったのと違うと落胆しているのか? そんなのは社会に出たらたくさんあるぞ(そんなの分かってます)。そんなの言ったら、俺だってなあ(個人的な話なんて聞いてないんですけど)、本当は数学の教師なんてする気がなかったんだよ。大学で教授になって数学の道を極めたかったさ。だけど、大学教授ほど儲からず、割に合わないものはない……。いや、しかし。私の次の世代である君たちには、自分の興味関心のある分野を一心不乱に突き進んでほしい(今の話で本当にそう思えますか?)。俺の持っていた生徒でこんなやつがいてな(もっと聞いてないです)』
 現実に戻る。先生は指をおろしてじっと僕を見ている。周りの生徒も僕を見ている。だけど、僕の前に座る金山だけは僕を見ていない。
 金山の背中を見ていた。僕の目を通って脳内で、金山と僕の物語が始まる。
 場面は屋上(見たことないのに)。部活が始まって、野球部の声が響く放課後。暗くなりかけて少し肌寒くなった夕方に、僕と金山は二人きりだった。金山は僕に背を向けて、夕焼けを眺めているようだった。
『どうしてあのとき、こっちを見なかったんだ。みんな僕の方を見ていたのに』
 金山は何も言わない。
『かわいそうだと思ったか。そんな同情いらない。俺は別にあんなことどうでもいいんだ。先生が味方でなくたって、クラス全員が敵になったって(本当はただ叱られただけなのに)。僕は一人でいい。誰もいらないんだ』
『だめだよ』
 ソプラノの声。明るくて無条件に可愛らしい。
『一人でいいなんて、だめ。本当は寂しいんでしょ。分かるよ』
 金山がどんな表情をしているのか分からない。だけど、その声はとても優しい。それだけで慈悲深い女神のような表情をしているだろうと思える。
『分かるよ』
 もう一度、金山の声。
『私も一人だから。一人でいい。だけど、一人はいや。あのとき本当は振り返ってみんなと一緒になりたかったの。だけど、みんなが鎌田君を見てるって思ったら、あの教室で鎌田君が一人になっちゃうって思ったら振り返られなくて』
 泣きそうな金山の声。たまらず僕は近づいて、彼女を抱きしめる。
『ごめん』
 泣かせてしまってごめん。金山は小さく首を振る(なんで僕が彼女をだきしめているのに、彼女が小さく首を振っているなんて分かるんだ)。
『いいの』
 金山の声は涙声。それでも失われない、下がることのないソプラノの声。
『私もごめん。愛してるとかじゃなくて、ごめんなさい』
 そうやって僕たちはお互いを慰め合う。
 現実に戻る。
 黒板のグラフは消されて、金山のツインテールは消えてった。

その日のホームルームで配られた学年だよりの小見出しは「五月病にならないために!」だった。前からプリントを渡していく儀式の中で、僕を視界に入れずにプリントを渡す金山の横顔は、目が細くて、妙に頬がぷっくりしている、有名な能面のあれみたいだった。
「一年生の五月に中間考査がないのはな、五月病になったところに試験の成績が悪くて不登校になりましたってことが多かったからなんだ。いいか、それだけ五月病ってやつはバカにできない。みんな気をつけるように!」
 担任が学年だよりを掲げて高らかに警告する。
『先生、五月を過ぎたら、僕のこの無気力さは何と言い訳すればいいですか?』
 起立して、まっすぐ手を挙げて(そんなこと小学校低学年でしかしたことないだろう)、僕は言い返す。先生の苦々しい表情。
 想像するだけで、ちょっと笑える。

妖怪三題噺「ツインテール、放物線、五月」
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