筆保銀香です

三題噺置き場。縦書きの。段落のところの1マス空きが変なのはご容赦ください。

てっちゃん

このおでこにキスをしたい。夏美は今年小学生になったばかりの従兄弟の鉄次に対して、そんな気持ちを抱いた。

「次はー、山手線ー」
 鉄次は他に集まっている親戚たちには目もくれず、家から持ってきた買ったばかりのきれいな電車を畳縁に走らせることに一生懸命になっている。来てしばらくは、そんな息子に対して山本の叔母さんは「こら、テツ! 他の親戚のおじちゃんおばちゃんに挨拶なさい!」と叱っていたが、全く聞く気がないことを悟って、息子をおいて挨拶まわりに行ってしまった。
 夏になると、夏美の祖母にあたる依田のおばあちゃんの家に親戚が集まる。依田のおばあちゃんの誕生日付近になると、親戚中が集まって、おばあちゃんのお祝いをどうするかの話し合いをする。
 だけど、そんな親戚たちの話は大人の話であって、子供たちは大人たちの邪魔にならないところで時間を潰さなければならない。鉄次と夏美以外の子供たちはみんな山井のところの奏太が外に連れて行ってしまった。奏太は一応鉄次も誘っていたみたいだが、電車の他に興味がない鉄次を見て諦めて行ってしまった。
 夏美は他の親戚の子たちに比べてお姉さんだ。もう十八になって、大学生である夏美は、子供たちから見ると大人で、大人たちから見ると子供だった。話し合いにも入れず、遊びにも行けない夏美は縁側から動物を眺めるように鉄次のことを観察して暇を潰していた。
 あのおでこにキスをしたい。
 それは夏美の純粋な欲求だった。決して性的な欲求ではなく、ただなんとなくそうしたい気持ちに駆られていた。
「次はー、八王子ー。次はー山手線ー」
 鉄次が畳縁を走り抜け、引き戸のレール部分をがたがたと突き抜け、勢いよく縁側にいる夏美にぶつかった。
「痛!」
 夏美は自分の背骨に鉄次の頭がぶつかる痛みを受け、うっすらと涙目になった。しかし、背骨に頭をぶつけた鉄次の方は痛みなど感じなかったのか、夏美を見てにんまり笑った。
「事故です! 事故です! 人身事故! ホルモンぐしゃー!」
 幼い子供から発せられる生々しい表現に、思わず夏美は「はぁ?」と呆れたような声を出してしまう。
「夏美ちゃん、大丈夫かい?」
 夏美と鉄次の事故を見て駆けつけたのは山本の叔父さん、鉄次のお父さんだった。
「叔父さん。うん、大丈夫」
 本当はまだ背骨に鉄次の頭がぶつかった時の衝撃が残っていたけれど、夏美はそう答えた。夏美はそっと叔父さんから隠すように右手で自分の背骨を撫でる。
「そうかい? それならいいけど……。テツ、夏美お姉ちゃんに謝らないとだめだぞ」
 叔父さんの優しい声に、鉄次が少しバツの悪そうな顔をする。少し叔父さんのことを睨むように眺めていたが、鉄次がぷいと夏美たちに背を向ける。どこかに行ってしまうことを恐れた叔父さんが「おっと」と言って、鉄次を抱えて縁側に座った。
「しばらく大人しくしてなさい」
 叔父さんに抱えられた鉄次は自分の持っていた電車をじっくり眺めたり車輪を手のひらで回したりしながら、諦めたように大人しくしていた。夏美は叔父さんの横に腰をかけて、その鉄次の様子を眺めた。
「テツもすっかり電車が好きになってしまったなぁ」
 独り言のように呟かれた言葉に、夏美は首を傾げる。
「いやね、僕も実は電車が大好きで、それで花奈さんに、あ、テツのお母さんにも怒られたことがあるんだ。『私と電車のどっちが好きなのよ!』ってね。だから花奈さんはこの子に『鉄次』ってつけたんだと僕は思うんだ」
「鉄次……」
「『鉄道を二の次にしてくれますように』って。でも、その気持ちも叶わず、テツは僕と同じ鉄道オタクになっちゃって。今じゃもう僕以上に『鉄ちゃん』だよ」
「鉄ちゃん」
 叔父さんの言った言葉を言い返す。夏美はさっき鉄次がぶつかった時に言っていた「ホルモン」という言葉を思い出した。
「てっちゃんって、ホルモンのことでもありますよね」
「そうなんだよ。この前、家族で焼肉屋に行った時にそれをテツに教えたら、頻繁にホルモンって言うようになっちゃって。自己紹介のつもりなのかね、こいつ」
 照れたような、嬉しそうな表情で息子のことを話す叔父さんに、夏美はしだいにあたたかい気持ちになっていくのを感じた。もう少しこの状態に浸っていたいと考えていると、部屋の方から「山本さん」と呼ぶ声がして、叔父さんは鉄次を置いて奥に行ってしまった。
 残された鉄次は少し立ち尽くして叔父さんの背中を眺めていた。その背中が見えなくなると、鉄次は夏美の隣に腰掛け、足をぶらぶら揺らしながら電車の車輪を手のひらで回して遊び始めた。
「もう頭痛くない?」
 夏美は鉄次のおでこを撫で、たんこぶができていないかを調べる。鉄次はその間ぼんやりと夏美のことを見ていた。
 幼い子供のつやつやしたおでこ。前髪に隠されていない剥き出しのおでこ。そこにそっと夏美が自分の唇を当てる。その間、夏美は何も考えていなかった。ただただ、その子がかわいくて、愛しいような気持ちだった。慈愛の気持ちだった。
「大丈夫そうだね」
 そう言って、夏美はぽんぽんと手のひらで軽く鉄次のおでこを叩く。鉄次はポケットからもう一台、電車を取り出して夏美に渡す。
「ホルモン号、しゅっぱーつ!」
 鉄次は勢いよく、縁側を走っていく。夏美の手のひらに乗せられた電車は緑色であちこち塗装が禿げている。
 何度も遊んだんだろうな。
 夏美はそれを握りしめて鉄次がまた戻ってくるのを待った。

妖怪三題噺「ホルモン、電車、キス」
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