筆保銀香です

三題噺置き場。縦書きの。段落のところの1マス空きが変なのはご容赦ください。

蔵の女

蔵の中に女がいる。そんな逸話をいろいろと聞いてきたが、俺の女が一番美しいと思う。

「そんなの、アンタの買い被りさね」
 レンガ色のワンピースを身に包んだモダン・ガールが羅宇煙管を手に言う。その煙はランタンの灯に映し出されて、妖艶な雰囲気を醸している。
「本当に思っているさ。アンタは誰より美人だ」
 持ってきたワインを鞄から取り出す。彼女はゆっくりと首を振る。俺はここ数年、彼女に酒を持って来るが、それを彼女が口にすることはなかった。そして、今年も。
「何度も言っているだろう。アタシはそんな素敵な飲み物よりも、日本酒みたいなものが好きなんだ。甘いものがあれば、もっと良い」
「そんな甘い酒、甘酒くらいしかないさ」
 ふん、と彼女が鼻を鳴らす。
「洟垂れ坊主だったアンタが酒を持って来るなんてって思ったけど、やっぱりまだ洟垂れ坊主だね。世の中、甘い酒は甘酒だけじゃないのさ」
 あははと笑って、煙を顔にぶつけられて、俺の顔は熱くなった。毎年「洟垂れ坊主」と馬鹿にされてきて、いつまで経っても対等になんかなれない。それが悔しくて悔しくてたまらない。
「それにしても、甘酒かぁ。久しぶりに飲みたいねぇ」
 彼女は小さな机に頬杖をついて、うっとりとした表情で言う。
「西洋好きのモダン・ガールのくせに」
「あら。モダン・ガールでも、日本生まれの日本育ちだもの。西洋被れなだけじゃないわ」
「でも、憧れていたんだろう」
「そうね……。憧れていた、かもしれないわ。西洋被れはとてもかわいいのよ。ワンピース、髪留め、帽子、靴、ネックレス。その全て素敵なもので、恋をした子のように思い出話にきれいな華を咲かせるのよ」
「ここに来るやつか」
 俺は蔵の中をぐるりと見回す。ランタンの灯では蔵の全てを照らすことはできないが、それでも近くにあるものは見える。どれも色あせたり埃被ったりしているが、上物だ。
「女は見られて奇麗になるの。それって逆に言えば見られていない間の女に価値はないってことじゃないかしら」
「今の時代でそんなことを言うと、女に嫌われるぞ。それに、おまえだってしばらく見られないことがあるだろう。こんな所にいるんだから」
「ええ。そのときの私は本当に無価値だわ」
 彼女は愉快そうに笑った後で、すっと真面目な顔になる。
「だから、あんたが見るときはとびっきり奇麗になるの」
 嗚呼、本当に。美しい。
「俺が前に来てから、どれくらいの人がここに来たんだ」
「たくさん。数えてなんかいられないわ」
「どんなことを話したんだ」
「昔話ばっかり」
「おまえに触れたのは」
 カン、と鋭い音がして、俺は彼女を見る。彼女は羅宇煙管を灰吹きのふちに叩いたときのままの姿勢でじいっとしていた。彼女の目は灰吹きに向けられているが、物悲しく、憂いているように見える。
 それが全てを悟っていた。
「ねえ、アンタ」
 彼女の赤い口紅をひいた唇が動く。
「アタシをここから連れて行ってくれないかい?」
 俺を見るその目は潤んでいた。
「だけど、そうしたらおまえは……」
「お願い。アンタの傍にいたいの。この蔵の扉が開く度に、アタシの胸が高鳴って、アンタじゃないと分かると途端に冷たくなるの。ここは寒い。寂しいんだよ」
「でも」
「アタシの身体が問題なら、アンタの好きなようにしていいから」
 女の手がゆっくりと俺の頬に触れる。
「私を壊して、作り直して」
 俺は彼女のワンピースに手をかけた。

 蔵の外はもう夕暮れだった。鞄を肩にかけて、靴を履き、立ち上がる。そのときにズボンのポケットに入れた懐中時計に触れる。今さっき組み上がったばっかりの、俺の女。
「随分小さくなったな」
 握りしめていたせいか、懐中時計は少し熱を持っているような気がした。まるで子供の手を握っているような気持ちになる。蔵の中の柱時計に触れていたときは、いつも心臓が高鳴って仕方がなかったのに、この懐中時計に触れているときは安心できた。いつまでも守っていきたいような、優しい気持ちになる。
「甘酒でも呑みに行こうか」
 俺は歩き出す。
 もうこの蔵にはこないだろう。

妖怪三題噺「甘酒、時計、美人」
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